イエス的に、自分を嫌ってきたりバカにしてくる相手を逆に上から憐れむという方法論が思いつく。
君らはそんな徳の低いことしかできないのかかわいそうにという感じで。
しかしイエスの場合と決定的に違うのは、イエスの場合は嫌われることが分かっていながらあえてそういう言動をとっていたわけである。
一方自分の場合はわけがわかってないわけである。
そうなると、自分に非がないかどうかもわからない、知らずの内に自分が人間として最低な言動をとっていた可能性もあるという状態なわけである。
逆に動揺する理由はわけがわかってないからとさえいえる。
そのような状況で果たして上から相手を憐れんで平常心を保つなどということができるのか全く自信がない。
できるかどうか試しに嫌われてみようかなどということも難しいわけである。
ぶっつけ本番しかないわけである。
これはなかなか難しい。
ただ、イエス的な方法論は過去のことにたいして現在の心の平静を保つことには確実に貢献してそうな気はする。
君らはそんな徳の低いことしかできないのかかわいそうにという感じで。
しかしイエスの場合と決定的に違うのは、イエスの場合は嫌われることが分かっていながらあえてそういう言動をとっていたわけである。
一方自分の場合はわけがわかってないわけである。
そうなると、自分に非がないかどうかもわからない、知らずの内に自分が人間として最低な言動をとっていた可能性もあるという状態なわけである。
逆に動揺する理由はわけがわかってないからとさえいえる。
そのような状況で果たして上から相手を憐れんで平常心を保つなどということができるのか全く自信がない。
できるかどうか試しに嫌われてみようかなどということも難しいわけである。
ぶっつけ本番しかないわけである。
これはなかなか難しい。
ただ、イエス的な方法論は過去のことにたいして現在の心の平静を保つことには確実に貢献してそうな気はする。