セミリタイア日記

48歳でセミリタイアした独身男が暇にまかせて恥も外聞もなく好き放題書いちゃうBLOG

2018年05月

無能というのは悪でも罪でもない。
目的を達成しようとして、その能力がなかっただけだ。
著しい迷惑というだけで、断罪されるものではない。

例えば、日大の会見を仕切った人は、無能かもしれないが悪ではない。
また、あの人にどんな指示が与えられていたかも不明である。
日大への批判を和らげろという指示が出されていたのなら無能であろうが、会見を早く切り上げろという指示であったのかもしれない。あるいは、批判の矛先を自分に向かわせて分散させろという指示だったのかもしれない。
もしそうなると無能とは言えなくなってくる。

だから、あの人をぶっ叩くのは間違いであろう。
無能をたたいても、なにもならない。
その人が、改善するしかないがその意欲も奪うだけかもしれない。

悪と無能を切り分けられているかかなり疑問だ。
戦争に負けたのは無能であるが、悪ではない。
無能を感情的に叩いてしまうのではないだろうか?
それは愚かなことである。

しかし無能を優秀と勘違いしてる場合は厄介だ。
本当は無能でも優秀と思われる場合もあるであろう。不正を行ったりして無能でも結果を出せるかもしれない。
その場合批判した方が良いのだろうが、、、
明らかに不正と言えるだけの根拠がまた難しい。

結果が悪ければ、指示する立場の人は自ら早く身を引くしかないかもしれない。
身を引かないならぶっ叩く以外ないのか、、、
堂々巡りになってきた。
自分に関係のない事はほっとくのが一番かもしれない。
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自分のやりたいこと、得意なことをやればいいと思うが
問題は、それがよくわからない事だ。

まず自分の才能はよくわからない。
例えばブログである。
少なくとも2年間続ける才能はあったと言える。
しかしそれが他者に優越しているかと言われると、そうなっていない。
こつこつ文章を書き続ける才能が有ったことは確かだというだけだ。
そしてブログがやりたかったことかと言われたら大いに疑問であるし好きかと問われるとこれも大いに疑問である。
他人のブログを読むのは好きだが

また、自分は女性の歌を歌えるが、そんな才能がある事はつい最近まで知らなかった。
これは男性がそう簡単にはできるとは思えない能力だと思うが。
しかし、歌えると言うだけで自分の耳で聴いても優越しているとはいい難いクオリティだ。
それが分かるまで楽しかったが、わかってしまってからいまいち楽しくなくなってしまった。
この中途半端な才能をどうとらえたらいいのだろうか?

才能自体が、非常によくわからないわけで、さらにある程度優越しないことにはなかなかそれが好きにならないのでなかろうか?
どうしても他者比較の上にそういったものが乗っかってくるわけで

結果が優越した人はどうどうとそれは才能だと言えて、好きにもなるだろう。そしてそれがそのまま仕事となって金がもらえたとしたら運が良かったってことだろう。
好きな事をやったってことじゃなくて、やってみたら得意だったという事なわけで

となると、とにかく好き嫌い考えずに何でもやってみるしかないという事か
当たればラッキーみたいな
よほど暇じゃないと無理だな
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籠池さん夫婦の釈放会見をみて、素晴らしい夫婦愛を披露していた。
しかし、なぜか心のアラームセンサーが反応してしまう。
これは危ないと言っているのだろうか?

お互いに相思相愛で褒め合う姿を見て、単純にそれだけを見ると素晴らしいと思わなければならないような感じがするのだが、なぜかそう思えない。
うらやましいと思えないのだ。

ルックス面で多少損している部分はあるかと思うのだが、それが美男美女だったとしてはたしてその印象が変わるかというと微妙だ。

なにか、演出過剰というか、違和感というか
今まで経験してきた人の関係を見てきたタイプからかなり逸脱している印象を受けてしまう。

もちろん私の心がひねくれているのかもしれない。
自分が独身なので、ねたんでいるのかもしれない。
上司に褒められて気持ち悪いと感じるような病んだ人間であるからかもしれない。

そこのとこはどうしても自分の感覚に自信がないわけだが、籠池さん自体嫌いなキャラじゃない。むしろ面白いキャラだと思うほどだ。
ただし天皇や教育勅語を商売のネタに使った感覚はちょっと理解できないが、、、
日本人なら絶対ちょっとなかなかやらない事だと思う。

しかし、あの会見を見るとアラームが鳴り響いてしまう。
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承認欲求とか自己実現欲求は、高次の欲求であり、これらが満たされることが至福であるとする。
しかし、これらはほんとに欲求なのだろうか?

心理学者に喧嘩を売ろうというわけではないのだが、そんな知識もないし。

ただ、解せないことがある。
もしそれらが欲求なら、なぜそれらが全く満たされない状況にある今の自分が、それらをまだしも満たせることもあった会社員時代より幸福なのか?
どう説明したらいいのであろうか?

確かに自分は会社員時代が不幸すぎただけかもしれない。

しかし、社会の頂点に立つような目覚ましい成功者、日大のアメフトの監督などもそうであろう。
そのような人々がなぜ、こうも次から次へと自ら不祥事で身を滅ぼしていくのであろう。
承認欲求、自己実現欲求が完全に満たされているはずの彼らは何が不満で不祥事を起こすのだろうか?

そして、死後になってその功績を認められたような偉人は、まったく不遇なままのかわいそうな人だったのだろうか?

あまりにも不可解である。
要するに、承認欲求は本当はないのではないだろうか?
そのような欲求は突き詰めると性欲に集約されるのではないだろうか?
つまり、より多く異性と交渉を持てるチャンスを増やそうとしているにすぎないことを、美辞麗句で飾り立てているだけなのかもしれない。

ほんとの欲求は、結局本能だけではないだろうか?
それさえ満たされれば十分なのではないだろうか?

しかし、そんな事を言ってしまうと人間は動物と一緒かという身もふたもないことになってしまう。
さすがにこれはまずいというか、そんなはずはないと思いたい願望か理念かよくわからないものによってもっと高尚な欲求を考え出したという事はないだろうか?

あるいは高尚な欲求を信じ込んでもらう事によってなにか都合がいい勢力がいたのであろうか?
さすがにここまで悪魔扱いしたら心理学者に怒られそうだが、、、
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例えば、努力、やる気、強さ、忍耐
それぞれは良い物であり、局面で必要なものである。
しかし、それが一番大事なことではない。
目的は、別のところにあるはずで、例えば安定した無理のない活動の持続であったり健やかな心身を育成、維持することであったはずある。

それが達成されていれば、上のような事柄は無くてもいいのかもしれないし、それ自体ものすごく客観性を欠く事柄であるため、それらを評価基準にしてしまうと上の者の解釈でどうにでもゆがめられてしまう。

しかし、社会はなぜか上のような事を重要視する。
むしろ目的よりも、重視するほどである。
まるで苦労してなければ価値はないのだと言わんばかりである。

そして絶えずそれを要求する。
なければわざわざ苦労を作りだすほどである。
そんな事を要求されたら、心身が壊れていくことが必然だと思われるのにである。

本来の目的はどこかに追いやられ、より派手でより分かりやすい、より上記の事柄を強める方向に突き動かされていく。
そして、挙句に他者に優越するためには手段をとわないとなり、破滅させられる。
たまたまうまくいっても、そんな事を続けることは不可能である。

何故、そのような事になってしまうのだろう?
日本人の特性であろうか?

しかし、聖書などをみても有史以来からそのような事柄が記述されている。
本質を忘れ、些細なしきたりを重視し人を苦しめる。
副次的なものを突き詰めてしまうのは日本人だけの問題ではなさそうである。

どうしたものであろうか?
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